あれから7年が経ったのか、はやいもんですね。たくやきです!
ブログに書くネタが見つからねぇ…と悩んでたので、ベッドにごろんと横になっていろいろとこれまでの人生を巡ってみたらふと思いついたあの日のこと!
2018年、現在わたしは28歳ですがこれまでの人生であれほどの衝撃はなかったといっても過言ではないでしょう。東日本大震災!
当時たしか大学3年生、春休みだったので大学4年になる直前だったかな。宮城県のちょっと海沿いにある町に住んでいたんですが、今でも部分的にではありますがはっきりと覚えています。
あのときはブログとかやっていなかったので、せっかくだから覚えていることや体験したことをつらつらと書いていこうと思いますよ。
ちなみに、「大地震のときに気を付ける〇コのこと!」みたいなのは書きません!なにが当たっていてなにが間違っているかとかは人によって違いますからねー。
わたしがなにをしていたのか、を中心にお話しします。こういう人もいたんだね、くらいの感覚でお読みください。
3月11日の14時46分、あのときの衝撃は忘れられない!
3月11日、当時通っていた大学は春休みで行くことがなかったんですが、わたしは絶賛就職活動中だったため、ひとり家でmacbook(支給品、どうでもいいけどCore2Duo)を開いて自己分析みたいなことをしてました。
でも飽きちゃったので途中からまとめサイトをぼーっと眺めてて、これまたどうでもいいけど恋愛系のまとめページを見てたんですよw
そして「あぁ、彼女ほしいなぁ」とか思いながら迎えた14時46分。
ガタガタ!っとタンスやら食器が音を立てはじめたんですが、それを聞いた瞬間「あ、これはヤバイ」と確信しました。あきらかに揺れ方がいつもと違かったわけですから。
同じように震災を経験した方なら同じような状況だったのではないでしょうか?
なんか小学校の理科だかで「初期微動」みたいなの習うじゃないですか?最初は弱い揺れだけどだんだん強くなってピークになるみたいな(あってるかな?)。
けど「え、初期微動なくね?!」ってツッコミを入れたくなっちゃうほどの初期微動だったので、そりゃあ「ヤバイ」って思いますよね。
でもたぶんあのときは頭より先に身体が動いていました。
地震が発生してから揺れが落ち着くまでに取った行動
小学校や中学校のときは避難訓練が1年に数回は行われていましたが、どんな内容だったか覚えてます?
まずは揺れがきたらすぐに机の下に隠れること!そして揺れがおさまったら「お・か(は)・し」を守って校庭に出ること!でしたね。
「お・か(は)・し」の内容は
- お・・・おさない
- か(は)・・・かけない(はしらない)
- し・・・しゃべらない
です。訓練だと実感がないのでテキトーにやってたわけなんですが、まさかホンモノの大地震を体験するなんて思いもしなかったな…。
しかし、しかしですよ?そんなたぶん10回以上はやったであろう訓練のことなど頭をよぎることもなく、「ガチャン!」と食器が落ちる音を耳にしつつもわたしはテーブルの下に隠れるどころかサンダルを素早くセットして30m先の田んぼにむかって猛ダッシュをしていました。
311よりも随分前に、『九死に一生スペシャル』という番組だかで地震でビルが崩れて~みたいなネタをやってたからそれが潜在意識に刷り込まれていたんでしょう。
なぜ田んぼに向かったのか?あのときは考えるヒマがなかったわけですが、家が崩れてしまう恐怖感が心の奥底にあったと思われ。
田んぼまでの30mという距離をかけぬける途中で、となりの家のおばあちゃんが悲鳴をあげながら家の壁にへばりついているのが見えました。地震がくる直前に外にいたようで、もう必死につかまってた。
さらにその後ろから、おばあちゃんが飼っているおっきなゴールデンレトリーバー(こちらもご高齢)がガクブルしながら必死におばあちゃんの背中にしがみついていたのは忘れられない…。
隣の家のわたしですら普段は近づくと吠えるのに、「あぁ、犬でも自然災害は怖いもんなんだな」と。そのときはそれどころじゃなかったわけですが。
それで、地震にビビッて逃げていたわたしには当然おばあちゃんたちを助けることもできず、無我夢中で残りの10mをダッシュして田んぼに飛び込みました。
「これで屋根から落ちてくる瓦とかに当たらないし、電柱が倒れても大丈夫!」と一安心できたんですが、揺れがほんとに長いし強いしで、立っていることもできずに尻もち。
立てない。ほんとに立てない!っていうかしゃがんでても手を地面につけてないとコケる!
「おいおい…これ地割れとかしたらどうすんだよ…これ…日本沈没ってやつ⁈」冗談でもなくこんなことを考えながら早く揺れがおさまるのを祈りまくってました。
揺れがおさまってから避難を始めるまで
数分後、ようやく揺れがおさまったので(体感では10分くらい揺れてたと思ってたのに、後日ニュースで揺れは2分くらいと聞いたときはまじでビビった)家に向かって歩き出したわたしですが、おばあちゃんたちも含めて近所の人たちがざわざわと外に出てきた。
まだおやつタイムなのでいわゆる「ご主人」的な人はもちろんいません。「こわかったねー…」なんて近所の奥様と話していましたが、ご近所で買っているワンちゃんたちはみんな((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル
それに引き換え、うちで飼っているカメ(名前もカメ)なんて「え?なにかあったん?」というような顔でこちらを見ている始末。なんてこった。

6歳くらいのときから飼ってる!地震予知はしなかったね…
そんなこんなしている内に、買い物に行っていた母親が車で戻ってきたのでこれからどうするかを話し合ったり、近所の方と話したりしてました。
一方わたしはというと恐ろしいもので、「そういえば」となぜか家に戻っては、まとめサイトを見る前に作っておいたカップラーメンを食べ始めてたんですね。
地震発生してからもう20分は経っていたと思いますが、よくもまぁのうのうとカップラーメンなんて食べれたものだと。すっかり伸びきった麺をテレビ見ながらツルツルとすすっていました。
テレビではミヤネ屋が流れていて、宮根さんがすごい剣幕で東京やら仙台やらの映像について実況していたのをよく覚えています。
ちなみにわたしの住んでいた家は「ちょっと海沿い」と冒頭で書きましたが、家と海の間に”常磐自動車道”を挟んでいる状況です。
また父親からは「常磐道があるからここまで津波はこない!」と前から言われていたのでカップ麺を食べる余裕が生まれていたと思うんですが、麺をすすっている間に常磐道より海沿いの人はもう…
なんてむごく、恐ろしい話だ…。
さて、カップ麺を食べ終えたあとくらいでしょうか。サイレンを鳴らした車が「今すぐ〇〇小学校に避難してくださーい!」と言いながら通り過ぎていきました。
母親と一緒に必要になると考えられる荷物(水タンクとか)を車に積んで、300mくらい先にある、かつて通っていた母校に行くことに。
わたしは命の次の次くらいに大事だったmacbookやスマホを持って車へ。
カメはおいてった。ごめん(いまさら)
地域の人といっしょに5㎞先の中学校へ避難することに
車なので1分で小学校の校庭に到着したわたしと母親。ちなみに家族は他にも父親と姉と妹がいますが、それぞれ別々の場所にいたので連絡付かず。
(次回書きますが、父親は仙台空港に勤務していたので意外とヤバかった模様)
すでに何人もの地域の人が避難していて、車もたくさんありました。そしてある程度そろったところで、代表の人が突如
「えー、ここにも津波がくるかもしれないので、みなさんで〇〇中学校に避難しましょう」
とマイクで話しました。
そうだねー!なんつってみんなでわいわいなってたときに、次に聞こえた衝撃の一言!
「えー、避難は徒歩でおねがいします!」
「徒歩でおねがいします!」
「徒歩で」
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と、徒歩っ⁈
まじか!まじなのか?!中学校までの距離はおよそ5㎞だぞ!
歩けない距離ではないけれどさすがに徒歩は苦しいし、万が一でも津波がきてしまったら…?!
・・・でもこんな地震が発生したあとだからしょうがないのだろうか。
何かの本か教科書だかでも「震災時は車を使わずに徒歩で避難しよう!」なんて書いてあったのは事実だし、もし無視して車を使って事故なんておこしたら大変なことはこの上ない。
わたしはせっかく車に積んだmacbookを持っていくのを諦め(一緒に積んだお水とかも)、手ぶらで中学校がある山の方へ地域の人たちとむかうことになりました。
0.3の視力でも認識できる、常磐道のほうからちょろちょろと少しずつ、けれど着実にこちらに向かっている津波を見ながら…。
今回はここまで!
ということで前編はここで終わりになります。
かなり衝撃的な出来事だったので、意外と覚えているもんですね。この勢いで中編、後編も書いていきたいと思います。
この311の震災では、幸いわたしの知り合いで亡くなった方はひとりもいませんでした。1000年に一度と言われているにも関わらずこんな奇跡があるなんて、わたしは本当に幸せな人間なのかもしれませんね。
今後は関東大震災だの南海トラフだのいろいろ言われていますが、いつかは必ずくるようなのでこれを見ている方は災害時のリュックとかそういうのは持っておいてもよさそうです。
事前の準備はしっかりとやっておきましょう!とだけ言っておきます。macbookは入るくらいのね。
以上です。
おわり
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